「……姫君?」

 珍しいことに、自分にあてがわれた室から滅多に出てこない短髪の姫君が、簀の子にまで出て身を乗り出していた。
 彼は、単に彼女の体調が気になって、彼女の室を訪れたのだった。昨日、貧血を起こし、夕方から彼女は寝込んでいた。身の回りの世話は侍女たちがやってくれるものの、か細い身体に今にも消え入りそうな命を宿しているような少女を、どうにも彼は放っておけなかった。早朝から真面目に出仕し、ある程度の仕事をこなした後、“おやつ”目当てで再び自分の邸へと戻ってきた。
 彼女は、彼の姿を気が付くと、びくりと身体を震わせ、いつもの怯えた目で、彼を戸惑いがちに見た。
 彼が近づくと、彼女は身をすくめはしたが、逃げるようなことはしなかった。ふと彼は、彼女の手のひらに一つの蜜柑があることに気が付き、それは、と小さな声で問いかけた。すると、彼女はなぜか申し訳なさげに目を伏せ、いえ、と細い声で答えた。

「子どもが……」
「子ども?」

 素直に首を傾げてみせると、彼女は両手で持った蜜柑を胸の前に引き寄せながら、ええ、と頷き、

「子どもが、私に蜜柑を……」
「子ども、とは……どの子どもだ?」
「分かりません。知らない子でした」

 答えると、ふむ、と彼は考え込んだ後、もしよければその蜜柑を一房わけてくれないか、と彼女に尋ねた。
 彼女は目をしばたたかせて彼を見上げ、すぐにハッとした様子で蜜柑を彼に差し出した。おそらく彼女は、彼は「お前には子どもから蜜柑をもらう資格など無い」と言いたくてそう尋ねている、と思っているのだろう――考えて、彼は、苦笑した。彼女は、妙に謙虚だった、それはいっそ自虐的とも言えるほどだった。
 彼は、彼女から蜜柑を受け取ると、慣れた様子で蜜柑の皮をむき、一房もぎ取ってひょいと口に含んだ。そして一瞬、眉をひそめ、すぐに懐から取り出した懐紙の上に、口の中身をぺっと吐き出す。
 どうしたのだろう、と驚いた様子で向けられる彼女の視線に気が付き、彼は薄く苦笑した。

「いや、えぐくてな」
「えぐ、い?」
「酸っぱくて食えぬ。子どもの選別するものだ。
 待て、俺がひとつ別のものを取ってこよう。台盤所にあったような気がする」

 そう言って、彼は背を向けて彼女のもとから離れた。彼女から見えない死角まで来ると、先ほど蜜柑を吐きだした懐紙をくしゃりと片手で握りつぶす。

(誰だか知らぬが、陰湿な奴め。子どもまで使うか)

 軽い痺れの残る唇を指先でぬぐい、彼は憤りを感じながら、新たな蜜柑を探しに行った。
 しばらくして、彼が彼女のもとに戻ってくる。彼女はすでに簀の子にはおらず、質素な室の畳の上に、いつものように小さく正座していた。彼の姿に気が付くと、何やら心配そうに身体をさっと彼の方に向けて、彼の顔を見上げた。

「あの……」
「ほら」

 戻ってきた彼の手には、先ほどとは異なる蜜柑が二つ載っていた。一つを彼女の両の手のひらに載せると、彼は彼女と少し離れた床の上に腰を下ろし、手に残った蜜柑の皮をむき始めた。

「俺は、甘いのを見分けるのが得意でな」

 ふふ、と笑いながら言い、彼はもいだ二房の蜜柑を口に放り込んだ。そして彼女の方を見やり、お前も良かったら食べるといい、と促し、残る蜜柑の房を美味しそうに次々に口に入れていった。
 彼女は、少し首を傾げた様子で彼の姿を見つめていたが、じきに薄く、少し悲しげに、だがどこか嬉しそうに微笑むと、ありがとうございます、と彼に聞こえる声で言った。
 彼は、ただ微笑して、それに応えた。